京都の観光ポスターとか和風なポスターをみると「カタカナのエ」みたいな雲マークが描かれていることがよくあります。洛中洛外屏風みたいな昔の絵にも雲や霞はよくでてきます。日本画の定番のパーツといってもよいものです。
これ、屏風絵とかだと「区切り・グリッド・エリア分け」として使われていることがあります。「マンガでいうコマとコマの間の空白」として霞がつかわれていたわけです。
洛中洛外図屏風という中世の京都を描いた屏風がありますが、だいたい金色の雲が京都市内を覆っています。
ただ、ロンドンのように霧に包まれた京都を描いているわけではありません。霧の都KYOTOというシーンはあまり想像つかないと思います。単純に「区切り線」として雲や霞が使われているわけです。
ほかに上手く霞が使われているなあと感じたのが、家康を神格化して描く絵巻物で、横にたなびく雲をおっていくと雲の先に家康公が鎮座しているわけです。神聖さみたいなものを出すための装飾としてだけでなく、視線の誘導ラインとして使われる事例もたまにあるのだなと感じました。
さて、この霞というものは中世以降の絵だと様式化されたパーツになっていますが、霞には「この世とあの世を区切る」という解釈をすることもできます。
たとえば、自分が絵師になって霊山(神様のいる山)を描きたいとしましょう。この場合、山の後ろの空に神仏を描くという直接的な手もあります。
一方で、山の中腹に霞をたなびかせて区切り線を1ついれることでも、山の上と下で違う世界があることをほのめかすという抽象的な表現もできるわけです。
新世紀エヴァンゲリオンというアニメのTV版の最終話の中で、「なにもない世界に、横線を一本引くと、上と下ができる」みたいなタイプの話題が出されたことがあります。絵の中に横線を引くということは「上と下という2つの世界がそこにできる」という風な印象を与えることができるわけです。
これを仏教的な文脈で使えば、浄土という理想世界と穢土というけがれた世界を分ける区切りとして「霞」というラインがひかれることによって、霞の向こう側に聖なる世界が出現するわけです。
雲や霞という絵は雲の上の世界(てんじょうのせかい)を想像させることにもなりますし、雲の下の世界(地上の世界)を想像させることにもなります。
「何か向こう側にある」という想像をさせるという役割をもつのが霞というシンボルの役目でもあるわけです。そして、向こう側の世界、極楽世界を連想させるというところで、吉祥文様(おめでたいもよう)として使われるようにもなったものと思われます。
霞は、お正月ポスターや年賀状デザインなどでもよく使われるカタチですが、「霞の向こうは神の世界みたいなイメージもあった。」「コマ割りの空白みたいな、区切り線として使われていた。」といったことをふまえて使うといい感じになるのではと思います。