#008 見立て

    概念・視座

    ・見立て

    何かを見て、そこから似たような別のもののイメージが立ち上がること。たとえば「龍のカタチに見える雲や山脈をみて、そこから龍のイメージを想像する」といったことをさして、見立てと言うことができます。

    面白いのは「似たものが見えてしまう」というと「パッシブな意識の働き」にみえますが、「見立て」というのは「イメージを立ち上げる」という「アクティブな意識の働き」も含んでいる点です。

    江戸時代の俳人、松尾芭蕉は「菜めしより 雪間やみせて 夕煙」という俳句に、白いご飯の間に緑の菜っ葉が見えるありさまと、雪の積った野原の真っ白な野原の間から緑の草が顔をのぞかせている様子とを、似ているというコメントをしています。これは菜飯を雪景色に見立てるという話だと思います。

    とはいえ、この例は雪の積もった雪原をリアルでも映像でも見た記憶がない人は、連想をしにくい話なのではないかと思います。


    ・そもそも「見る」とは何か?(脳科学的に)

    見るとは何かという話をすると、眼球はビデオカメラのレンズに、脳は映像スタジオに例えることができます。目の奥の網膜という平面スクリーンに移った2次元 の情報を、脳が翻訳して3次元の世界として再構成していると言う話です。「見る」というのは単に目に写っているだけではなく、脳が情報を再構築しているから成立していると言われています。

    実際にケガなどで脳の視覚情報を処理する部分が損傷すると目は正常でも視界に欠損が生じるそうです。これは、日論戦争の時代に日本人のお医者さんが銃弾で頭を負傷した人を調べている時に最初に判明した話らしいです。

    ところで、「壁のしみが、見方によって波に見えたりする」といったことは古くから絵を描く人の間では経験的に知られていました。山水画のような中国大陸の風景画を描く人たちは人間が「見えてるものを解釈する生き物である」ことを熟知していたようで、平面の絵なのに現在進行形で動きそうな霧や光を絵画にすることに成功しています。

    これがなぜ可能になるかというと、人間が「見る」ということをする時に無意識的に色んな推測を行うからです。

    コンビニなどで「適当な発音の言葉」でも会話が成立するのは無意識に「こういう言葉がくるよね」という文脈に基づく予想が無意識になされているというのと似たような話です。

    大事なのは無自覚に脳の側で推測や補正が行われた後の世界を私たちは見ているという考え方です。


    ・日本庭園と見立て


    枯山水など日本庭園の世界も「見立て(似たものを見る)」趣向があふれています。例えば、3つの石が並んでいたら三尊石として阿弥陀三尊に見立てるといった具合です。

    「3つで三尊石」みたいな見立ては「そういう例え方もある」という知識を持っていないと遊べないゲームではあります。浄土式庭園というのは極楽浄土に見立てている庭園ですが、これも解説がないと分かりにくい設定ではあるでしょう。

    ただ「3つ=三尊」みたいな発想を一度記憶してしまえば「ただ3つ石があるだけ」でも「何かを感じられる」ので、岩が並んだ庭園の見方が面白くなります。

    枯山水庭園の場合に興味深いのは、「眺めていると、なにか気の流れを感じられる」ような気になる庭園も少なくないことです。

    水の流れという分かりやすい流れはなくても、岩の高さの高低差や岩と木の配置、庭園内と庭園の向こう側の山の見え方などなど、色んな要素の関係性によって「流れ」が無意識に感じられる装置がそこにいい感じに作られていると、「流れ」の存在が意識されなくても、流れを見た時に感じる感動だけは自動的に立ち上がってきてしまうのかもしれません。

     

    では今回は「見立て」という視点のお話でした。

     

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