#004 混沌・気と象

    概念・視座

    ケイオスというヨーロッパ言語の訳語としても混沌という言葉は当てられます。ただ荘子などの語る「混沌」と、ヨーロッパ言語の「カオス」は少し違いがありそうです。

    荘子の混沌は「人間がさかしらな秩序を作る以前の世界」で1つの世界なのに対して、ヨーロッパのカオスは世界の始まる前というイメージに加えて「秩序に対する無秩序としてのカオス」のように2つの世界のうちの1つという面があるのです。1元論か2元論かみたいな差です。

    1元か2元かで言葉のイメージが変わるのが、例えば「革命」のシーンです。「コスモス(秩序)に対するカオス(無秩序)」というカオスは、革命を賛美する言葉になることがあります。フランス革命で例えるなら、王政という古いコスモスを守りたい保守派と、壊したいカオスな革命派という分類です。この場合の「カオス」は新しい幻想を建てるために古い幻想の破壊というクリエイティブなイメージを強く含みます。

    一方で、老荘思想などでの「混沌」は「既成概念の否定」という方向自体は持っていますが、世界を分類するという思考の活動そのものを否定するところに価値をおきます。この場合の混沌は「言語による世界観のリセット」はしますが新世界の再創造には必ずしもふれません。老荘の混沌は幻想を減らしていくことそのものが目的だからです。再創造を前提としない破壊であるのがケイオスとの違いです。

    また、「天地の始まり」の日本の伝説の中にも混沌は登場します。

    日本書紀では、世界のはじまりを卵に例えており「陰と陽が未分化で、混沌としている」さまを最初に描きます。「古 天地未剖 陰陽不分 渾沌如鶏子」、宇宙は卵としているたとえが、卵がそこから生命が誕生するものであること、を考えると興味深いところです。こちらは世界が「陰という下降原理と、陽という上昇原理」に分かれるまえの、未分化状態としての混沌というイメージが使われています。

    ところで、古事記の序文も混沌という言葉こそありませんが「混元既に凝り、気象いまだあらわれず」と混沌とした世界のはじまりを語っています。

    この「気象」いまだあらわれずというのは、お天気予報の話ではなくて、「万物の根源は気である」的な世界観をベースにしている言葉で、「気」という目に見えない世界の根源も、「象」という目に見える世界のカタチも、まだない状態としてみるといいでしょう。

    ところで、中国絵画やその流れを受けついだ日本画の世界で、禅のお寺にありそうな山水画に関して言うと、こうしたものは「単に風景」を描写したらい絵画化したりしているわけではなく、「山の気」「山の気を見て人間が感じたこと」などを描いているという考え方があります。

    この場合、絵にまず求められるのは「モチーフを描く」というよりは、「絵から気がいきいきと感じられる」ということになります。その結果として「動き出しそうな雲みたいな描かれ方をされる岩山」みたいな神秘性のあるすごい絵が出てくるわけです。

    絵画史の本はカタログ的な細かい情報ばかりで「どう見れば面白いのか」ということは沈黙していることも少なくないようです。これは「その絵画ジャンルが、ナチュラルに面白い人」に向けてかかれているからそうなるのかもしれません。

    ただ、世界を「体も星々も気でできている」といった見方をしてみた上で、「絵から気を感じよう」「絵から「道」的な精神性を感じよう」みたいなことをするのが山水画の楽しみ方だ、という見方も絵を見るための選択肢として意識的にもっておくと、より面白いのではないかと思います。

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